1812年6月23日に侵攻は始まった。ナポレオンは作戦前にサンクトペテルブルクへ最後通牒を送っていたが回答を受け取ることはなく、ロシア領ポーランドへの進軍を命じた。当初ほとんど抵抗を受けずに、敵地に速やかに移動した。ロシア軍総司令官バルクライはバグラチオンの要請にも拘わらず、戦闘を拒否した。数回にわたって強固な防衛陣地構築を試みたが、その都度フランス軍の侵攻の速度が早くて準備が間に合わず、退却を余儀なくされた。これはしばしば焦土作戦の例として使われる。
8月に入りスモレンスクで戦闘が始まった(8月16日-18日)。大陸軍の兵力はここまで戦闘らしい戦闘を一度もしていなかったにもかかわらず、強行軍に耐えきれずに、飢え、疲労、逃亡などにより脱落する兵士が続出したことにより15万5千に激減していたが、決着はつかなかった。スモレンスクの戦闘後、バルクライは総司令官を解任され、8月20日にミハイル・イラリオーノヴィチ・クトゥーゾフが後任に就任した。バルクライの作戦の欠点を誇張したにもかかわらず、クトゥーゾフはフランス軍との交戦で無益な犠牲をロシア軍に齎すことをすぐに理解して、バルクライの手法の多くを継承した。防護陣をボロジノに布くことにし、9月7日にはボロジノの戦いが起こった。 ロシア軍は9月8日に退却を余儀なくされ、モスクワへの道を明け渡した。クトゥーゾフは市街からの撤退も命じた。
この時までにロシア軍は、モスクワ近郊の10万人(ボロジノで打撃を受けたクトゥーゾフ軍の残存兵力に部分的な増援が加わった)を含め、全軍で904,000人を数え、兵力は1812年の戦役における頂点に達した。